世界的に「車椅子の天才物理学者」として有名なイギリス出身のスティーブン・ウィリアム・ホーキングさんが、イギリスのケンブリッジ大学近郊の自宅で、家族に見守られながら穏やかに息を引き取ったそうです。76歳でした。
彼は、相対性理論やブラックホールに関する画期的な研究で知られており、彼の著書の1つ「ホーキング、宇宙を語る(A Brief History of Time)」はベストセラーとなったことでも有名ですね。
物理学のことはちんぷんかんぷん。でも、彼ことをもう少し深く知りたい!という方のために、ホーキング博士について簡単にまとめてみました。
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もくじ
両親はやはり高学歴
1942年1月8日に、スティーブン・ホーキングはイギリスのオックスフォードで生まれました。偶然にも、この誕生日は、あの地動説で有名なガリレオ・ガリレイの没後300年の日でした。
父親のフランクはオックスフォード大学で熱帯医学を学び、母親のイザベルは同じ大学でPPE(哲学・政治・経済などの学際領域)を学びました。やはりそういう血は受け継がれるんでしょうね〜。

第二次世界大戦直後、2人は大学を卒業し、ある研究所でフランクは研究員として、イザベルはその秘書として、同じ場所で働いたことがきっかけで2人は出会いました。スティーブンは長男で、2人の妹と1人の養子の弟がいました。
ホーキング一家は、貧しい暮らしだったにもかかわらず、子供たちへの教育への支出を惜しむことはありませんでした。その時の両親の方針が、未来の彼の業績に繋がったことは言うまでもありませんね!
若いころは神童ではなかった
スティーブンは、若いころは他の子供たちと同じような学校環境で勉強しました。
13歳の頃に父親のフランクの希望で、ウェストミンスター学校を受験しようとするのですが、奨学金の資格審査当日に病気で試験を受けることが出来ませんでした。
ホーキング家には、奨学金なしでウェストミンスター学校にスティーブンを入れることは出来ず、彼はそのまま地元のセント・オルバンズ高校に通います。
しかし、そのお陰で友達がたくさんでき、一緒にボードゲームや模型飛行機で遊んだり、色々な話を共有することが出来たのです。やはり、この多感な時期に、勉強ももちろん大事ですが、友達とのコミュニケーションも同じくらい大事ですよね。
学校では、「アインシュタイン」として知られてはいましたが、特に「神童」と呼ばれるようなことはなく、どちらかと言えば、学問的には優れていたとは言えませんでした。
しかし、徐々に彼は「科学」への才能を開花させ始めます。
オックスフォード大学とケンブリッジ大学大学院
父親は、スティーブンに母校であるオックスフォード大学へ行くよう勧め、彼は見事、オックスフォード大学の奨学金試験に受かり、入学することが出来たのです。1957年10月。彼がまだ17歳の時です。
しかし、スティーブンの最初の大学生活1年半は、うんざりし、孤独感で一杯でした。なぜなら、彼にとって大学の授業はあまりの簡単で、まわりのほとんどの学生が彼より若かったので、仲良くなれなかったのです。
しかし、2学年の中頃から、クラシック音楽やサイエンス・フィクションのグループに入り、ボート部にも参加しました。このことで友人もでき、充実した大学生活を送れるようになりました。やはり、何事も行動あるのみですよね!
卒業後、さらにケンブリッジ大学大学院の応用数学・理論物理学科でブラックホールの研究をし、学位を取得しました。

筋萎縮性側索硬化症の発症
21歳の時に難病の1つである「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」を発症してしまいます。この病気は、体中の筋肉が萎縮し、筋力が低下していく病気です。やがて呼吸する筋肉さえも失ってしまいます。平均寿命は3〜5年。2014年にアイス・バケツ・チャレンジで有名になりましたね。
残り少ない人生を、少しずつ動かなくなっていく体を抱えながら生きなければならないことに、彼は当然、絶望し自暴自棄になってしまいます。
しかし、同じ頃、後の妻となるジェーン・ワイルド出会い、人生への希望を再び取り戻しました。ジェーンはスティーブンの病気を知ってはいましたが、彼のユーモアな人柄と美しいグレーの瞳に惹かれて、1965年に2人は結婚しました。その後、3人の子供を授かっています。
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ブラックホールの蒸発理論

1974年に彼は「ブラックホールの蒸発理論」を発表しました。ちょっと簡単に説明してみましょう・・・・・本当に簡単にですよf^_^;)
まず、太陽質量より8倍以上の大きな星が超新星爆発を起こすと、中性子星やブラックホールが後に残されます。ブラックホールは何でも永遠に吸い込み続けてるというのは、これまでよく知られてきたものでした。
しかし、ホーキング博士は、ブラックホールはエネルギーを放出し続け、徐々に減衰し、やがて蒸発する、という理論。このエネルギー放射現象は「ホーキング放射」と呼ばれるようになりました。
後に彼自身もこの理論を部分的に修正することになるのですが、当時は非常に話題になったそうです。
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安楽死を提案されたこともある
1985年、43歳のスティーブンは滞在中のスイス・ジュネーブで重篤な肺炎を患いました。大変な危篤状態だったらしく、担当医師はジェーンに対して「安楽死」を提案したそうです。しかし、ジェーンはそれを拒否し、医師に手術をお願いしました。そして、手術は無事成功。
気管を切開したため、彼は会話能力を失ってしまいましたが、『ホーキング、宇宙を語る』がベストセラーとなり、スティーブンとジェーンは一気に富と名声を手に入れました。
しかし、得たものが多すぎたのか、2人は以前のような幸せな関係を失ってしまい、1991年、25年間続いた夫婦生活に幕を閉じることになったのです。
1995年には、担当看護婦だったエレイン・メイソンと情熱的な恋愛ののちに再婚しました。
しかし、2006年にはエレインからの身体的虐待を理由に離婚してしまいます。
生きることへの強い意志
その後も彼は、精力的に研究や執筆活動、講演を続けました。
2014年にはホーキング博士の半生を描いた映画「博士と彼女のセオリー(The Theory of Everything)」が発表。私は観たことがあるのですが、主演のエディ・レッドメインが真に迫った素晴らしい演技を見せ、数多くの賞を受賞しています。一見の価値ありです!
「1分1分全力で生きたいんだ!」と生前のインタビューで語っていたスティーブン・ホーキング博士。
2018年3月14日、イギリスのケンブリッジ大学近郊の自宅で、家族に見守られながら穏やかに息を引き取りました。76歳でした。ちなみにこの日はアルベルト・アインシュタインの誕生日と一緒だそうです!生まれたときは、ガリレイと関係があり、亡くなるときはアインシュタインとだなんて、偶然にしては出来すぎていますね!!
亡くなってしまう最後の最後まで、思考し行動することをやめなかった彼は、本当に強い生への意志を持っていたのでしょう。そうでなければ、ALSという難病と戦いながらここまで生き抜くことは出来なかったはずです。本当に才能に溢れた素晴らしい人物だったということですね。
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彼の死後、ホーキング博士の3人のお子さんが書いた共同文書にこう記されていたようです。
『愛する人たちが住んでいなかったなら、宇宙もたいしたところじゃない』
ホーキング博士らしい言葉ですね!みなさんも愛する人たちがいることを大切にしていきましょう!!